私の履歴書 その1

埼玉県生まれ、14歳まで大阪育ち。中2の7月、父親の都合で千葉県に引っ越すことになった。とはいえ、19までは割と月並みな人生なのでちょっと略。(大阪弁が今でも時々でるのは、ネイティブが大阪のせいである。)

  • 19才までは順調に育つ。

 受験にて、「補欠合格」・・にて落ちる。
「早、慶、上智、あるいは6大学以外は大学じゃない、バカにやる金はないから、さっさと○○女子短大の2次試験を受けろ」といわれる。私はどうしても、大学で「心理学」がやってみたかったが、○○女子短大に「心理学」はない。父のコンプレックスも相当なものだったろう。うちの家系は確かに優秀で、私は結構期待をかけられていた。とはいえ、父さん、あなた「一浪して立教」じゃないのん・・。「俺は遊び呆けてたから」というけど、娘だって気分転換が必要です。

  • 予備校でテストの結果、いきなり「早稲田コース」に放り込まれる。

「毎日単語を○○個覚えろ」などの厳しい宿題、自習室の黒山の人だかり・・
 みんなの一生懸命な「想い」「念」が渦巻いている。これだけの人を蹴落とせっていうの? 宅浪してればよかった。みんなの「想い」「念」、オニのような宿題は私が耐えうるプレッシャーの限界を超えてしまった。私には、当時それらを無視する、受け流すという防御方法をもっていなく、もろに「くらった」のだ。まもなく、偏差値が20程落ちる。夏休み、ある人の勧めもあって、予備校を暫く休むことになった。2階の自分の部屋で寝たきりになった。暫く休んでいるうち、父親の怒りの発破(鉄拳)が入る。「お前はいつまで、そうやっている気だ?一生そうしてろ。お前は一生『2階の住人』だ!!」私の中で、怒りが蘇る。眠っていた「根性」が目を覚ます。友達に支えられるようにして、予備校へ行った。友達の母が「看護婦」だったのも助けだった。また、自分の予備校のコースは、「バリバリ勉強します」的で雰囲気が悪かったので、友達の入っていた、和やかなコースに潜り込ませてもらう。優しい友達も結構いて、私を和ませてくれた。これが立ち直るきっかけになる。両親も、やっと「6大学以外は大学じゃない」考えを改めてくれたようで、旅行になど連れて行ってくれるようになった。10月頃から、成績は徐々に回復を始めた。

  • 第2志望であった○○○○大学文学部心理学科に合格。

 正直、「学校から呼ばれた」ようにしか思えなかった。
 美しいチャペルがある、大変雰囲気のよい学校だ。一生の友達にも沢山恵まれた。
 「しょっちゅうお茶しながら、このまま時が止まればいいのにね。」とよく話した。

  • エンジニアを目指す

 就職氷河期と言われた我々の世代。うちの大学を出ていればそこそこのメーカーには
 勤められるのが普通だったが、氷河期ではそうはいかなかった。まず書類選考で落ちる。世間の風潮は「4大卒女子は営業と技術以外要らない」。そこで、私はエンジニア一本に絞った。システムエンジニアなら、技術は身につくし、試験に合格さえすれば文理関係なく入れる所が結構あったからだ。(もちろん、理系のみしか募集しないところも多々あった。)試験に合格しても、面接で必ず聞かれるのは「何で心理学やってた人がエンジニアを目指すの?」・・心理学には、アンケートや実験結果を集計するための「統計」も必要で、そのために簡単なプログラムを組む必要があったことを説明して、何とか納得してもらった。

  • エンジニアをやってみて

いろいろありましたよ・・。残業が凄くて、合コンなどには行けず、そのうち声すらかからなくなってきます。

設計や仕様書を書くことが多かったのですが、偉そうに外注のプログラマさんに注文を出し、バグを出したプログラマさんをいじめる上司の姿は、ことごとくみっともなかった。
技術の習得に喜びを感じるプログラマさんは目が澄んでいる。となりの上司といえば、一日中「裕○奈○」ちゃんの壁紙をじーーーっとみている。イヤーっ(^^;;
そんな中で、一日中流行曲ばっかり口ずさんでいるプログラマさんがいた。髪の毛は派手な茶色で話し方も馴れ馴れしい、けど愛嬌があって憎めない人だった。周りが言うには、「彼が一番できるから、プログラムなら彼に教えてもらえば?」・・え、本当ですか?と最初は疑ったが、教え方の上手さ、説明の明白さには度肝を抜かれた。技術者は、見た目じゃ解らない・・。いつもマシン室で歌ばかり歌っていた茶髪のプログラマさんは、決して奢らず、意外と真面目で、イジワル言ったり口は悪かったけど、心根がとても優しかった。可愛がってもらった。私はその人をみて「プログラマになりたい」と願った。(念のため言っておきますが、別にその人とは付き合っていた訳ではありません。「お前、もうちょっと足が細ければナー」とか平気で言われましたよ。高校の時までは、今より7kg痩せてたんですけどね・・。もしそうだったら、私の運命はまた変わっていたのかもしれないね)

  • 上司

上司に恵まれたとき、私はプロジェクトリーダーとして、いろんな顧客を回り、仕様をまとめたりという仕事にあやかった。とても楽しかった。またここで、噂好きなうちの社員に「付き合ってんじゃないの?」とか噂されましたが・・違うってば(--;)私は結構飲むほうなので、花見とかしょっちゅう宴会には連れていってもらいましたが、それは違うってばーー。マジ誤解されてました。

  • こまった上司

私の人生最大の恐ろしい話を・・。上司が変わり、ヘンな上司にあたりました。彼は実際の女性と付き合ったことがなく、女性とは「店」で遊ぶばかりのとんでもない奴でした。で、言い寄られること数回・・私が、最初の会社を辞めるきっかけになったのは、この人に「俺とホ○ルに行かないと、お前どーなるか解ってんだろうな」と脅されたとき。渋谷で散々連れ込まれそうになり、なんとかなだめすかして難を逃れましたが、(それでも足は触られるは胸は触られるは・・それで済んで良かったものの思い出しだだけでも寒気が)明らかに私に「トラウマ」を作ってくれました。上役に相談したところ「うちの会社は管理職すくないから、ガマンしてくれ。それより、アイツの事好きじゃないのぉー?(笑)」・・・・・もういい加減にしてください。そんないやらしくて気色わるい奴、好きな訳ないです!そのあとも、声をかけられたりしたためもうガマンできずに、その会社を辞めることになりました。その後間もなくして、世間でセクハラ問題が風潮になりましたが、もう少しはやく、その風潮が来てくれたら、私の会社でも「ガマンしてくれ」発言はなかったかもしれない。
(・・その後もまだ、波乱万丈は続きます、書くかもしれないし・・)

※これをみて、気分が悪くなった方がいたらすみません。今は法律が厳しくなったので、滅多なことではこんな事が起きないかと思います!