斜め読みしかしてなかったのですが

再び、斜め読みしてみました。「アルジャーノンに花束を」この中に、こんな言葉があります。「ぼくの教養は、ぼくとぼくの愛する人たち−ぼくの両親−の間に楔をうちこむ」教養は、人と人との間に楔を打ちこむ(障壁を築く)可能性がある・・。これは、おっしゃるとおりのように思います。知性にのめりこんでしまうと、他の人を思いやる心が失せてしまうのではないか・・。私がプログラムを作成する場合、出来がよいなと思えるプログラムが書けるときは大体「こころの感性」がないに近い状態(ロボット的)になることが多いのです・・。それが恐ろしくもあります。私が占いや、人の心に関することに常に興味を持っているのには、そういった機械的な仕事とのバランスを取っているんだと思います。論理と感性は反比例するのでしょうか?いやいや、これら両方が高まってあってこそ、新しいものを発見し生み出すことができるんじゃないかと、私は自分なりに思っています。理系といわれる人が感受性が乏しいわけではなく、同じ心を持っていながら自分の感じること、表現することがちょっと苦手なだけで、文系といわれる人が非論理的な訳ではなく、論理を整理したものを上手く表現することがちょっと苦手なだけ。みんな根っこの部分はそう変わらなくて、それがどう表面に現れるかが違っていて、それが個性と呼ばれるモノではないかしら。・・などと、考えてみたりした今日でした。まぁそれは私の中の余談でして・・情報処理の勉強しなきゃ・・(汗

アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス文庫)

アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス文庫)